<ロマンティック街道演奏旅行>

1996.8.12(mon)〜20(tue)



栃木ホルンクラブ ドイツ ツアー記

鴨志田 徹



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■きっかけ編■

言うは「やすし」!!

 「鴨ちゃん今度の日曜日の夜あいてない?」いつもの調子でかかってきた電話にちよっと「また急になんですか!」という気持ちを抑えつつ話を聞けば、頼まれてもいないのに何だかドイツ人の演奏会の打ち上げ会に乗り込んでホルンアンサンブルをやるというのでした。
 特に用事がなかったにしても押しかけて演奏するというのは気が進まなかったので自分としては断る方向で話を進めたかったのですが、これまたいつもの強引さに負けて結局行くことに…。
 今回のツアーのきっかけはそんな風にして3年前(1993年5月2目)にドイツ・フュッセンのブラスバンド「フュツセナーフイルハーモニー」が宇都宮に来た時に、その演奏会後のレセプションに押しかけたことでした。もちろん「言い」出したのはKb氏、フュッセンから来た人たちを歓迎するという我々の行動の裏には、互いにロマンティック街道の起点(終点)にあるということで宇都宮市と友好関係にあるフュッセンの人たちと宇都宮市の関係者にコネをつけて、将来自分たちを招待してもらおうというKb氏の夢というか期待と計算があったわけです。
 そして実際に計画が動き出すきっかけは今年の初め(1996年2月23目)の栃響の創立25周年の記念祝賀会の日でした。中国でお世話になったJTBの大友氏にお会いして話を聞いてビックリ!何とロマンティック街道関係のツアー担当者だというではありませんか!このときKb氏の頭の中ではドイツツアーはすでに実現していました。あとは誰かが行動するだけでした。

行うは「さだお」!

 さて実際に計画を実行するとなるとやるべきことが実にたくさんありました。先方に招待してもらったり、お金を出してもらえるようにするための文書のやりとりをKb氏が集中的に取り組む一方で、その他に必要な人選、選曲、パート割り、練習計画、楽器(狩猟ホルン等)の手配、さらにJTBに頼むつもりだった飛行機&ホテルの予約、ツアー全体の計画、移動方法などもUe氏のつての方が安くできるということで本当に全てのことを我々だけで処理することが必要でした。
 また5月6月はあのピツカ氏の接待などもあって本当に大変だったようですが。その甲斐あってピツカ氏には今回のツアーに必要な譜面の調達や楽器の手配などいろいろと協力をしていただけました。
 状況的に見れば、全ての事がドイツツアーに向けて迫い風でしたが、前例のないことだけに分担できる仕事は限られ、他の人より海外に詳しく「言う人」の考えを最も理解しているUe氏がほとんどの部分を行うことになってしまいました。本当にご苦労様でした。
 今回のツアーによってKb氏の夢は実現したわけですが、当初の目論見では中国へホルンパート+αだけで乗り込んだときのように、交通費、宿泊費程度は公費で出してもらえるように交渉を進めていました。
 その結果、フュッセンからの招待を受けることには成功したものの、タイミングの悪さなどもあって全銭的な援助は思うようには得られませんでした。理解していただいて援助してくださった栃木県の国際交流課(中国でお世話になった)と栃響の皆さん本当にありがとうございました。
 宇都宮市からはお金の援助はありませんでしたが市長名の文書やお土産によってフュッセンでの宿泊費、食事、ノイシュバンシュタイン城の入場料などは免除していただくことができました。
 そのようなわけで、結局ほとんど自費で行くことになったのですが、それでもUe氏の努力によりこの時期としては非常に安い運賃でドイツを住復することができましたし、本当にそれ以上の価値があったと全員が思えたであろう楽しい素晴らしいツアーでした。

働くは「とおる」?

 ということになっていますが、私はKb氏、Ue氏に比べればほんのわずか仕事をしたに過ぎません。一応私のできる範囲で働かせていただきました。
 私のしたことは選曲、譜面の準備、練習計画、編曲等ですが、私の最も大きな仕事は出発の3週間前になって突然行けなくなってしまったYm氏の代わりに、2回だけしか会ったことのないHr吹きの女性(横浜のKn嬢)を動員することに成功したことでしょう。
 彼女は英語の先生(中学)だったという理由だけで、現地では通訳、司会等他の誰よりも活躍してもらうことになったのでした。

■出発〜フランクフルトの悲劇編■

宇都宮〜成田空港へ

 出発の目の朝、珍しくも集合場所に全員がほぼ決められた時間どおり現れ、この先の展開に各々不安と期待を抱きつつ6:10発のマロニエバスに乗り込みました。
 ちなみにマロニエバスに乗るなら前の方をお勧めします。一番後ろにだけは座らないほうが良いと思います。
 空港で待ち合わせたメンバーとも無事合流し、機械のトラブルのために長引いてしまったチェックインの後、日本での最後の買い物を済ませ、ゲート前で待つことしばし、和田アキ子らしい人物を目撃してひとしきり盛り上がってから飛行機に乗り込みました。

飛行機の中にて

 満席で身動きが取れなかったせいか、楽器も出さず皆比較的おとなしくしていたようです。12時間を超える長旅ということで覚悟していた割には食事も美味しく快適でShall We Dance?に感動したり、眠ったり、心配された約1名がワインを10本以上も空けてスチュワーデスに警戒されたりしているうちに無事イギリスのヒースロー空港に到着。巨大なショッピングモールの中でしばし「見てるだけ」のショッピングを楽しんだ後、いよいよ間題のBM機でフランクフルトへと向かいました。
 このときKy氏に悲劇が待ち受けているとはもちろん誰も思っていませんでした。

最初のトラブル

 ヒースローからフランクフルトに向かう飛行機の中で座席の近くに置けなかった楽器をスチュワーデスに預けることに…気をつけるよう念を入れて預けた楽器が降りる時に何故か運びだされていました。不安は的中、心配したとおりソフトケ一スに入っていたKy氏の楽器がボコボコに…!ちなみにハードケースだったHs嬢の楽器もやはりボコボコで驚きましたが、それは初めからでした。
 Ue氏を中心に航空会仕に当日の夜と翌日の朝、2日間かけて粘り強く交渉しましたがらちが聞かず、結局あきらめて保険に頼ることに…。それでもとりあえず吹けなくなるほどのダメージではなかったのが不幸中の幸いでした。

教訓:旅行に行くときは一流の航空機会社を選ぼう!

レンタカー  思わぬトラブルで遅くなってしまっていらいらしていた我々にとって、レンタカーの手続きがこれまた時間のかかること。「いいから早くしてくれ!」と言いたい気持ちをぐっとこらえて、やっと引き渡してくれる車がわかってから、「これから洗車するので10分待ってくれ」と言われて全員開いた口がふさがらない状態に。
 とにかく大きな2台の車に乗り込んで出発。「最新の地図」を頼りにヴュルツブルグに向かいました。

■ロマンティック街道演奏の旅編■

ヴュルツブルグにて

 いやなことはすぐ忘れる能力に長けている我々にとって、トラプルによる暗い影は無縁でした。私はドイツだけでなくヨーロッパに行ったのは初めてでしたので、始めのうちはドイツの町にいるというよりは、テレビや本の中にいるような感じで、目に入るもの全てが美しく新鮮でした。
 ホテル アンベルガーで発注してあった楽器を受け取った後、街に繰り出してレジデンツやマリーエンベルグ要塞などを巡った後、皆でディナーを食べて飲んでその日は終る予定でした。
ヴュルツブルグの街角
 ところが予定にないのに、この町で受け取ったばかりの楽器を練習がてら演奏したいと「言う人」の一声で、演奏するということに。初めは教会の中でやると言って中に入ろうとしましたが、時間が遅かったせいか入れなかったので仕方なく教会の前で許可もなく演奏することになりました。
 始める前は面倒なことになりはしないかと恐れていましたが、始まってみれば中なのに何と良く響くこと! 石の路面と石の建物で囲まれているためと、夜7時を回っていたためお店は全て閉まり人通りも少なく雑音が少ないこともあって非常に響きが心地よいのでした。新しい狩猟ホルンの吹きやすさもあって皆は練習に励んでいるふりをしながらストレスを解消するのでした。
 見物客も集まっで来て結溝盛り上がったところに警察関係の方々が見えたときはさすがにちょっとまずいかなと思いましたが、危険では無いと判断されたのか逮捕されることもなく予定外のヴュルツブルグ公演は成功を納めました。
 そのあと皆でビールを飲んで食べてその日は終了。

ローテンブルグにて

 ヴュルツブルグから車を少し走らせてローテンブルグに到着した我々は、ここで最初の公式の演奏会を行うことになっていました。
 ホテルローターハーンで宿泊手続きなどをしながら見せてもらった新聞を見て感激! 何と我々の記事が写真付きで掲載されているではありませんか。このとき初めて我々が単に観光のついでにホルンを吹きにきたのではなく、ちゃんと招待されてきたのだという意識を少し持つことになります。
 というわけで本番前らしくそれなりに緊張も高まり、練習の足りないところや難しいところの練習をぎりぎりまでやって、本番の場所、市庁舎前のマルクト広場へと向かいました。
マルクト広場
 周りの人の目を気にしながら譜面台、ビデオ撮影等の準備も済んでいよいよ本番。ドイツの石畳の上で初めて吹くホルンのファンファーレ。ヴュルツブルグでの練習で分かってはいましたが、実に気持ちよく響いて、おそらく街中に響き渡ったのではないでしょうか。やっぱりドイツにはホルンの音がよく合いますね。 そしてUe氏がなくしてしまったため原稿なしで我々と演奏曲目の紹介を英語でアナウンスしなければならなくなってしまった横浜のKn嬢も兄事に大役をこなしてくれました。2曲日は指揮者付き、振ったのはTm嬢でした。彼女も指揮デビューがドイツという先輩の松尾先生よりも輝かしい経歴をもつことになりました。
 ここでさっきまで晴れ間も覗いていた天気が一転し雨が降ってきました。演奏を中止するほどひどい降りにはなりませんでしたが、まさか我々の演奏会に必ず雨が降ることになろうとは思いませんでした。
市庁舎・名誉市民証
 そんな風にしてローテンブルグでは2回の演奏会を盛況のうちに終えることができました。演奏後、我々は市庁舎の中に案内されて思わぬ歓迎を受けることになります。300年以上も前に当時の市長が3.25リットルものワインを飲み干すことによって街を救ったときに使われたものと同じ!?特大のワインジョッキに入ったワインを皆で分けあって飲み干すと、現職の市長自ら友好の証である名誉市民証を渡してくれました。しかしKb氏は一人で全部飲みたかったらしく不本意だったようです。
 さあこれからどんな美味しいご馳走と飲み物が待ち受けているのかと期待は高まりましたが、あっけなく歓迎はそこまででした。ちょっとがっかりもしましたが、まあ大変貴重な体験をさせていただいたことを考えれば大満足でした。
 ビールを飲んで食べて犯罪博物館で見た下手な楽士に対すろ拷間「汚名の笛」ならぬ「汚名のホルン?」のない時代に生きていることに感謝しつつその日は終了。

ローテンブルグ〜フュッセンヘ

 この日は 約270km/hの長旅でした。途中ネルトリンゲンに寄り道し、アウグスブルグで昼食をとってロマンテイック街道の終点フュッセンに向かいました。Ks氏が懸命に地図を見てナピをしてくれましたが、地図にも道にも慣れていないから時々走っている道が地図になくて道に迷っても、それは仕方がないのだと皆でそう思いながら、なんとかフュッセンに到着。
fussen
 本番まであまり時間がない中、準備を済ませて会場に向かう途中、またしてもかなりの強い雨が降ってきてしまいました。ということで屋内で演奏することになりました。そこはあまり広くはなかったのですが、良く響く会場でやはり気待ちよく演奏することができました。屋内ならではの暖かい拍手に包まれる感じは久々でした。
 アンコールではドイツのバイエルン地方では有名な酒場で良く流れる舞曲を演奏しましたがこれが大受けで、手拍子や立ち止がって踊り出す人もいました。そこで止めておけば最高だったのですが、Kb氏の一声で狩猟ホルンを演奏しようということに。止めようという声も多かったのですが結局強行しました。何とKb民はパワー全開を要求しました。狭い空間であの屋外用の楽器を8人が全開で吹けぱどうなるかはおわかりのことと思います。案の定終わってみると、心なしか聴衆の気持ちが冷めていたように感しられました。それでもKb氏だけは大満足。何でもかつてドイツの教会でこのような演奏がされていたのを聞いたことがあるそうで、これで良かったのだと一歩も引きませんでした。
 その晩、ホテル ヒルシュのオーナーであるシュベッケ氏により熱烈な歓迎を受けます。日本びいきの彼はホテルに日本食(ご飯、卵、味噌汁、漬物等)をいつも用意してあってそれをディナーの時に出してくれました。わずか日本を離れて数日しかたっていないのに妙に懐かしい感じが印象的でした。彼は芸達者で手品やトリック、ジョークで我々を楽しませてくれました。本当に最高の晩でした。もちろんピールやワインを大量に飲んでその日は終了。

ノイシュバンシュタイン城にて

ノイシュヴァンシュタイン城  その翌日、ノイシュバンシュタイン城での演奏が我々にとって最も重要な、今回のツアーの目玉でした。残念ながら城の内部での演奏は実現できませんでしたが、城への入場を待つ大勢の方々(推定2000人以上?)に我々の演奏を聞いていただくことができました。例に漏れずこの日も晴れていた天気が我々の演奏が始まると同時に雲が出できてやはり雨に降られました。しかしもう演奏中は雨が降るのが当たり前になっていた我々は、慌てることもありませんでした。
 演奏としては日本の歌では日本人観光客から大きな拍手をもらったりもしましたが、静かに聞く様子は無く終始BGM的な感じでした。それでもワーグナーにゆかりのあるこの名城で演奏することは我々にとって大いなる喜びでした。
ノイシュヴァンシュタイン城
 この後昼食をご馳走になり、宿泊代、食事代、飲み代すべてを出してもらえました。つまり接待されたわけです。ここへ来て招待されてきたのだということが、ようやく実感できたのでした。シュベッケさん本当にありがとうございました。
 こうしてフュッセンをあとにしてミュンヘンに向かいました。

最新の地図?(2回目のトラブル)

 ミュンヘンに向かう我々のナピは「最新の地図」の提供者Ue氏。アウトバーンをひた走り空港の近くにあるというホテルに向かいました。ミュンヘン市内に入って何故か道がよくわからなくなったUe氏はとにかく空港に行けば何とかなるということで、それを目標にひた走るのですが空港には向かっているのに、あるはずの地名が出てこないのでした。悪いことは重なるもので、こういう時のために用意したはずの無線は何故か使えない状態でした。ですから後ろを走ろ車に乗っていた方も方向が違うことに気づいたものの伝える手段がないままどんどん走っていかざるを得ませんでした。
 ようやく現在地がわかり方向が違うことに気が付き、アウトバーンを降りました。そこで地図を見て一同ビックリ!何と「最新の地図」とは1987年のものでした。実はミュンヘンの空港は7年ほど前に空港を移転したため古い空港の近くにあったホテルは今の空港からは市内から見ると反対方向にあるというわけでした。
 まあそんな訳で遅くはなりましたが無事?ミュンヘンの外れホテルレーターパークにたどりついたのでした。予定の時間の2時間遅れ、夜8時を回っていました。

■観光編■

ミュンヘンにて

 遅くなって、皆疲れてはいましたが、ミュンヘンの夜はこの日だけでしたので予定通り街に繰り出して飲みに行くことにしました。ミュンヘンといえば有名なホフブロイハウスにとりあえず行ったのですが、この日は何かサッカーでドイツのチームが勝ったとかで店の中は狂乱状態で、もはや入り込むすきまはありませんでした。
 ということで仕方なく近くの美味しそうに肉を焼いていた落ち着いた店に入ってとりあえずビールで乾杯。食べ物も結構おいしくて正解でした。
 終電に乗ってホテルに戻りその日は終了。
 翌目、公式演奏から完全に開放された我々は、単なる観光に来た日本人になっていました。そのため「車を返す組」と「朝から観光したい組」に別れて行動することにしました。これが次のトラブルのもととなりました。どう考えても「車を返す組」は大変でした。半分の人数で全員の荷物をロッカーに運び、楽器を発送し、車を返さなければならなかったですから。
 私は本当にいいのかなと思いながらも「朝から観光したい組」に入ってミュンヘンの観光を満喫しました。
 そして逆に「車を返す組」は想像以上の負担にかなりのストレスがたまっていたのでした。そして待ち合わせた時間に指定の場所で待つことしばし、現れたKb氏の開口一番「こっちはめちゃくちゃ大変だったんだから、そっち(朝観光組)でロッカー代くらいは出してよね!」言っていることも、やっていただいたことの大変さも良く分かっていたつもりだったのですが、言いかたが間題でした。何かこっちが悪いことでもしたかのようなKb氏の言い方は大きな反感を買うのでした。特にHs嬢の。
 さらにここでも悪いことば重なります。時間の節約のためミュンヘン→チューリヒの切符代は各自で買うようにしたのですが、実はヨーロッパの運賃は団体と個人の差が大きく「朝観光組」が8人分まとめて買ったのに対し「車返却組」はぱらぱらで買ったために一人高い人は自由席なのに210DM安い人は指定席でも170DMと大きな差が出てしまったのです。つまり楽しんだ方が安くなって苦労した方が高くなってしまったのです。ここでもまたUe氏が粘り強く交渉しましたが結局うまく行かなかったため、後で皆で負担額が同じになるようにしようということになったのですが、全員ではじめからまとめて買えばもっと安くなったことを思うと納得がいかないのでした。
 いやなことはすぐ忘れる能力に長けているはずの我々も旅の疲れからかうまくいかず、気まずい雰囲気がしばらく続くのでした。
 列車内でもその雰囲気を表わすかのように完全に二手に分かれ、「車返却組」が自由席で酒で盛り上がり挙げ句の果てに列車内で楽器まで演奏してしまうほどの勢いがあったのに対し、「朝観光組」は指定席で旅の疲れを癒すかのように大人の会話で比較的静かに過ごしながらチューリヒに到着したのでした。
 夜遅かったのでその日はそれで終了。

ルツェルンにて

 ルツェルンは音楽祭の真最中でした。我々もオランダバロック管弦楽団のバッハのロ短調ミサ曲の演奏会を予約していました。
ピラトゥス山の周遊と市内観光を2手に分かれて楽しんだ後、演奏会に行く前の集合場所に向かう途中、Ue氏は美人のダフ屋につかまっていました。話を聞けば何とできれば聴きたいと思っていた明日のプログラムを今日もやるというのでした。プログラムはマーラーの1番とドボルザークのチェロ協奏曲ということで今回のメンバーにぴったりでした。しかも科金は半額の20スイスフラン。本当に大丈夫なのかなという不安もありましたが、13人分調達してもらえたので、ネクタイをしめて演奏会に行きました。
 確かに明日と同じ演奏者と指揮者、ソリストなのですがちょっと雰囲気が違ってました。会場のお客はネクタイをしでいるのに、舞台上の演奏者はネクタイなし、中にはTシャツの者やサングラスを頭に乗っけている者さえいるのでした。そう公開リハーサルだったのです。
 とはいってもさすがに若いオーケストラの迫力は十分以上で難しいところを何度かやり直したり、練習したりするのが聞けてかえって我々にとっては面白い演奏会を楽しむことができました。
 そしてチューリヒに戻り、ヨーロッパでの最後の夜になんと栃響のHr仲間のYs氏がアムステルダムからうまく出張をあてて来てくれました。そして今回のツアーの思い出を語りあい大いに盛り上がるのでした。
 この日はビールだけでなく一本5万円もする40年もののウィスキーを飲んで終了。

ロンドンにて

 通過するだけの予定だったイギリスも6時間も乗り継ぎ時間があれぱ行ってみたいという意見が出ても当然。実は仕事の関係でここロンドン周辺はHs氏にとっては庭みたいなものでした。つまり迷うことなくロンドン市内を観光できることがわかったので行くことになりました。
 地下鉄でセントラルパークへ行きそこから有名なバッキンガム宮殿、ウェストミンスター教会、ビッグベンなどを見ることができました。
 ということでとりあえずイギリスにも来たという証拠を残して余裕で空港に向かうはずだったのですが、実は地下鉄が混んでいて乗れなかったり、故障して車両を交換したりでひやひやものでした。
 なんとかヒースロー空港にたどりついて最後の免税品を買い込みJAL機に乗り込みました。ミュンヘンで発送できなくて心配された狩猟ホルンの機内持ち込みも比較的空いていたおかげで問題無く運ぶことができラッキーでした。
 こうして我々のツアーは我々に様々なドラマを生み、感動を残して過ぎ去っていったのでした。

今回のドイツツアーを通じて感じたこと

 何年も前に冗談で話していたことが本当に実現したことは私にとっては鷲異です。これもひとえに私には真似のできない楽観的な物の見方、強引さ、いい加減さで自分の意志を貫き通すKb氏の熟意と、Ue氏の献身的とも言える地道な努力のおかげです。本当にご苦労様でした。ホルンを続けていて良かったと思ってます。
 今回のツアーの成功で気を良くしているKb氏の頭の中ではすでに次の計画が進行しつつあるようです。



ホルンのみなさんとドイツとスイスに行ってきました!

Vc. 瀧澤江里子



・日時8月12日〜8月20日(7泊9日)
・メンパー<男性>小林、上野、松浦、橋本、鴨志田、笠井、稲葉(栃響)
遠藤、服部、小柳(日本ホルン協会)
<女性>保坂、玉生、瀧澤(栃響)
金沢(日本ホルン協会)



今回の旅行は、飲む・食べる・登る

[飲む・食べる]
・中国でもそうでしたが、水ば飲まない方がいいということで仕方がないといえばそうなのですが、いつでも居酒屋状態でした。
 食べものは、1人前がとても多く、旅行中、お腹がすくということがなかった程です。(ドイツ人はきっと日本の食事の量では、満足できないんじゃないかな……)
・行きの飛行機で小林さんと小柳さんは、ロンドンに着くまでの約12時間半、ずっとワインを飲んでいました。(15本は、飲んでいたと思います)そして成田で買ったチキンラーメンをスチュワーデスさんに無理を言って作ってもらいました。スチュワーデスさんは、こういうことは初めてだと言っていました。
・ローテンブルクのホテルで夕食をとったのですが、周囲は、少し品のいいお客さんぱかり。当然、私達は、いつもの騒々しい宴会状態。お店の人やお客さんは、迷惑そうでした。(日本人の印象を悪くしてしまったような気がします。ごめんなさい。)
・ホテル ヒルシュのレセプションでは、稲葉さんは、ウオッカを一気飲みしてダウン。松浦さんも飲みすぎたようで顔を赤くして(恥ずかしかったのかな?)一足先に部屋に戻りました。

[登る]
 ロマンチック街道には、たくさんの塔や教会など高い達物がありました。体力にも限界があり、疲れることは分かっていても、高い所を見るとつい登ってみたくなり本当にたくさんの達物に登りました。(○○と煙は高い所に登りたがる?)
 それからルチェルンのピラトス山(2,132メートル)にも登りました。眺めは最高!

もう大人なんだから

これが困ったときの合い言葉でした。伸間がはぐれていなくなったり、時間に集合しなかったりすると「もう大人なんだから」といい、大丈夫だよと心配せず、放ったらかしにしてしまいました。(仲間を信用してるのか、それともいい加減なのか……みんな無事だったからよかったけれど、もしものことがあったら♭)

列車の中でのホルンの演奏

 演奏場所は、今回は3ヵ所でしたが、これだけでは物足りず、ミュンヘンからチューリッヒヘ向う列車の中で(当然、ここでも飲んでいました)気持ち良くなったホルンのメンパーは、ホルンを吹きまくっていました。そして、お金もいただいていました。(そのお金は上野さん、どうしたの?)どのような演奏だったかは、オフイシャルビデオをご覧下さい。
 それから、なぜか小林さんは教会を見ると演奏したくなるようでした。
 ミュンヘンのホフブロイハウスでは、ミュンヘンのサッカーチームが勝って異常に盛上がっていて(日本人がはいる雰囲気ではない)残念ながら演奏も飲むこともできませんでした。

すべての道はローマに通ず

 今回の旅行は、レンタカー(約600Km)と列車での移動でした。もちろん左ハンドルに右側通行、そして初めての道。私達は、道に迷ったこともありました。でも、そこは慌てず、「すべての道はローマに通ず」と信じて(いいのか、悪いのか)事故等もなく移動できました。

保険がきくから大丈夫!

 行きの飛行機で航空会社の不注意で楽器が壊れるというハプニングがありました。辛い、小柳さんのドイツ語と上野さんの語学力と積極的な態度、そして金沢さんの英語(神奈川の中学校の英語の先生)で保険で直せることになりました。しかし、そのことがきっかけで危険な状況になると何でも「保険がきくから大丈夫!」と強気になっていました。

ローテンブルグでは名誉市民証

 小雨という中でしたが、たくさんの市民、観光客の方の前での演奏でした。その中の日本の 観光客の方は、私たちをプロの演奏家と思ったらしい。
 ここでは、名誉市民証とバッチを項き、みんなでワイン3.25リットルをごちそうになりました。(この街は戦争から3.25リットルのワイン一気飲みして街を救った酒飲み市長“マイスタートルンク”の伝説がある)

お茶目なシュベッケさん

 ホテル ヒルシュのオーナー、シュベッケさんは、とても気さくで楽しい方でした。
 レセプションでは、そろそろ日本食が恋しくなった私達を気遣って、味噌汁、ごはんですよ、生玉子、たくあんなどを出してくださったり、手品をして驚かせたり……(たばこを手の中からなくしたり、椅子に寝かせた保坂さんの体を浮かしたり……)とてもお茶目な方でした。
 それから保坂さんは「赤ちゃん」と呼ばれ、シュベッケさんに気に入られていました。

ピツカさんの息子さん

 ミュンヘンでピツカさんの息子さんに会いました。彼は昔は、ホルンを吹いていたそうですが、今はホルンを吹かず、コンピューター関係の仕事をしているそうです。真っ赤なスポーツカーに乗っていました。(ピツカさんには、似ていなかった……)

ロンドンにも行ってきました

 スイスにもいく予定でしたが、ロンドン観光もしてきました。といっても、約2時間でしたが…(ロンドン空港でJALに乗り継ぐのに約6時間あったので、せっかくだからと)かつてロンドンに駐在していた橋本さんの案内でバッキンガム宮殿やビッグベンなど早歩きで観光しました。

玉ちゃん すっかりホルン人になる

 ずっと私と同室だったのですが、時々、夜、出掛けて帰りが遅く心配してしまいました。
(あの玉ちゃんが……、我らチェロパート、期待の星玉ちゃんが……どうしよう♭)
 お土産屋さんでもホルン人形などを購入していてすっかりホルンにのめり込んでいました。
 という私も普段ホルンの昔楽をなかなか聴くことがなかったのですが、今回の旅行でホルンがすきになりました。(ホルンの曲を口ずさむことも……)

 この旅行は、小林さん、上野さん達、人生のベテラン組の綿密な計画・準備、そして橋本さん、松浦さん達、中堅組の的確な判折力、鴨志田さん、笠井さん、保坂さん、稲葉さん達、若者組め実行力、行動力が無事、かつ安全にできたのではないかと思います。
 ホルンのメンバーの演奏旅行なのに、他の団員のみなさんも行きたかったでしょうに、参加させていただき本当にありがとうございました。夏のボーナスを全部、使い果たしてしまいましたが、それ以上の貴重なものを得ることができました。Danke schon!

 最後にこの旅行を一言で言うならばこの言葉がぴったりでしよう。

「言うは康 行うは貞男 働くは徹」(By 橋本さん)




−*栃響ニュース第11号('96.10.10発行)に掲載された文章です。−

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